校舎の角を曲がっただけで、喧騒は途端に小さくなった。
静かな空間に響くのは、水の音。
そして。
高く早鐘を打つ、この鼓動。


VALENTI・2



預かったタオルを握り締め、竹巳は足を止めた。
流しっぱなしの水場で頭から、「彼」は水を被っている。
近くで見た少年は、竹巳がフィールドで見つめていた時より、少しだけ小さく見えた。
とても、とても大きな背中だった気がするのに。
「……あの、、」
控え室で選手に呼び掛けた時よりさらに緊張していて、うわずるどころかひっくり返った声になった。
精一杯だったはずなのに弱弱しい声しか響かず、水場の少年は気付きもしない。
二度声を掛ける勇気は出てこなくて、竹巳はおどおどと立ち尽くした。
冷たい風が竹巳の頬を撫ぜて、それが心地よい。きっと自分の顔は、今真っ赤になっているんだろう。
勢いだけでここに来た。会って何を言いたかったのか、何の為に会いに来たのか。改めて考えて、鼓動は更に早くなっていく。
上手でした?すごかったです?感動しました?
どれも違う気がする。このどきどきを伝える言葉は、竹巳の脳裏に浮かんでこない。
焦る竹巳をよそに、少年は頭を上げ、きゅ、と蛇口を閉めてぶるぶると頭を振った。
飛び散る水滴が、水場のコンクリートに、グラウンドの黄色い土に色を付ける。
「…っどうぞ!」
反射的に。駆け寄り、握っていたタオルを差し出すと同時に、自分でもびっくりするくらいの大きな声が出た。
少年も驚いたように眼を見開き、一瞬ぽかんと竹巳を見つめてから、
「…おう。さんきゅ」
タオルを受け取り、がしがしと顔と頭を拭き始めた。
一瞬触れた指先に、竹巳は慌てて手を引っ込める。
何か言わなきゃいけない。焦るほどに言葉は出てこず、竹巳は口の中で「あの…」だけを繰り返す。
少年はしばらく竹巳の言葉を待っていたようだったが、どんどん俯いていく竹巳に痺れを切らしたように、
「…ところで、とりあえず、誰?」
タオルを無造作に肩に掛けながら問いかけてきた。
「あ…っ、オレ、笠井竹巳と言います、、」
不機嫌とも取れる三上の声音にびくっと体を震わせ、竹巳はようやくそれだけを搾り出した。
「ふうん。…で、そのタクミくんが、俺に何の用?」
何の用?そんなのオレが聞きたいよ!
竹巳の心の叫びは、しかしもちろん三上には届かない。
一度上げた顔を再び俯かせながら、竹巳はとにかく思うままに言葉を紡いだ。
「あの…あの、オレ、サッカーしてて、それで、友達に誘われて今日試合を見に来て、それで、後半から出てた三上さんがすごくて、オレ感動して、会いたくなって、それで控え室まで行ったらここだって言われて、タオル預かって…」
震える声は、大きくなったり小さくなったり。
ああ、こんなことが言いたいんじゃないのに。
「…オレ、今までプロの試合とかも見に行った事あるんですけど、すごいって思った事も感動した事もあるけど、今日の試合はなんか違くて、なんかゾクゾクして、オレ…」
最後はもう泣き声だった。何が言いたいのか自分でも分からない。
きっと三上さんも困ってる。呆れてる。
ぎゅっと目を瞑って俯いているから、三上さんの顔は見えないけれど。
「それで…あの…あの……」
「要するにさ」
ぽつん、と。
竹巳の言葉を遮るように投げられたその言葉は、静かなのに大きく、竹巳の耳に響いた。
「お前、サッカー好きなんだな」
ぽかんと顔を上げると、まだ濡れた黒い髪を掻き揚げながら、少年はにやりと口唇を歪ませていた。
「サッカーしたくなったんだろ。ゾクゾクしたって」
《笠井は、サッカーがうまいな》
《武蔵森の試験、受けてみないか?》
そうだ。この感じは、あのときに似ている。竹巳は思った。
胸の中がざわざわする感じ。
あの時は笑って首を横に振ったけれど。
「まだ小学生だよな?武蔵森に来んの?」
「いえ…」
「なんで?サッカーしたいんだろ?」
視界がぐるぐるする。そうだ。オレはサッカーが好きで、サッカーがしたい。
でも、ダメだ。オレなんてそんなに特別な才能があるわけじゃない。サッカーばっかりやってても、先なんて見えてる。武蔵森に行く資格なんてない。
なのに。
ああ。なんでこんなにゾクゾクするんだろう。
「来いよ。サッカーしようぜ。…まあ、来られればの話だけどな」
すれ違い様にぽん、と竹巳の肩をたたいて、少年は控え室へ歩き始めた。
「あ、タオルさんきゅな」
校舎の角を曲がるか曲がらないか。思い出したように掛けられた声を背中で聞いて、竹巳はその場に立ち尽くしていた。
…分かった。気付いてしまった。
なんであんなにどきどきしたのか。なんであんなにぞくぞく背中が震えたのか。
あれは武者震いだった。
あの場所に立ちたい。あの人と一緒にサッカーをしてみたい。
だって、すごくすごく楽しそうだったんだ。
他の人が苦しそうに息を切らしている中。同じように肩を上下させながら、それでもあの人は最後まで笑っていた。
周りにいる皆だって、サッカーは好きなはずだ。そうじゃなきゃ、サークルになんて入ってない。
でも、違うんだ。
もっともっと強くて、もっともっと単純な。
…そう、それはまるで、恋のように。
かっと顔が熱くなって、竹巳は頬を手で覆う。
でも、火がついたのは、顔だけじゃない。心に灯った熱い思い。
(どうしよう。武蔵森に、行きたい…!)
特別な才能があるわけじゃない。サッカーなんて、趣味で続けるだけならどこでもできる。
武蔵森には行かない、そう言ったとき、父さんと母さんがちょっとだけほっとした顔をしたのも知っている。
でも、それでも。
(サッカーがしたい…)
プロになりたいと真剣に思うような、プロになれるような才能をもった人達が集まるところだ。自分なんかが行ったところで、試合にも出られないかもしれない。
それでも、可能性があるのなら、やっぱりそれを選びたい。
「オレ…こんなにサッカー好きだったんだ…」
ひとりごちた瞬間、涙があふれそうになった。
自分でも気が付かなかった思いを、言い当てたあの人。
いや…たぶん、気が付かないふりをしようとしていただけなのだ。オレも、オレの両親も。
それを、あの人が。初対面で何も知らないあの人だから、損も得もなしに、簡単に言葉にしてしまった。
きっとあの人も、単純に、サッカーをすることが好きなのだろう。
だから、三上には竹巳の気持ちが分かった。
だから、竹巳は三上のサッカーに惹かれた。
わかってしまえば、簡単なことだった。
(父さん、母さん、ごめん)
家に帰ったら、真っ先に謝ろう。そしてお願いしよう。時代劇みたいに、土下座したって良い。
サッカー部選抜はもう終わっているから、一般入試を受けるしかない。それだっておそらくぎりぎりだ。
いてもたってもいられなくなって、竹巳はまた走り出した。
でも今度は、さっきみたいに訳の分からない感情で走っているんじゃない。
それは、幼い竹巳が抱いた、初めての強い強い意志だった。





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